一日一画の大絵巻 〜新聞小説の挿画に挑戦〜

                      画家、翻訳・作家 : 中村 麻美

なかむら まみ: 三重県津市生まれ。津田塾大学学芸学部国際関係学科では、日本人論へのアプローチとして、小集団心理学、家族心理学、比較文化学を学ぶ。在学中出会った『昔話と日本人の心』(河合隼雄 /岩波書店)をきっかけに、"ものがたり"(昔話、神話、童話、メルヒェン、ファンタジー、などと称されるもの)を通じて、人間の、特に日本人の心の深層について考えるようになる。卒業後、NHK衛星放送『ラウンドアップ日本』のキャスターをつとめながら、フロイト派、ユング派の深層心理学のほか、エリアーデ、ライエン、リュティなど多方面の研究を手引きに、独自に "ものがたり"を研究。

画家としては銀座清月堂画廊での個展の成功をはじめに、日本画「麻美乃絵」を発表。都内唯一の作家旅館、神楽坂「和可菜」や修善寺の名旅館「柳生の庄」に、「日本の情景シリーズ」「大和草シリーズ」「茶花シリーズ」などを描いている。著書に、『男と女のものがたり 日本史』(共著/講談社)、訳著に『開拓時代の生活図鑑』(あすなろ書房)『The Mysterious Power of Ki』(共訳/ Global Books社)などがあり、メーテルリンク原作の『チルチルの青春』(あすなろ書房)では翻案とさし絵の双方を手がけた。
また、コミュニケーションアート専門学校(東京・大阪・名古屋・福岡)では、漫画家を目指す学生たちに物語の構成について教えてもいる。第19代ミス日本グランプリ。

文と絵のリズム

−−  直江兼続 を主人公に、上杉謙信と景勝それに真田幸村たち“義”の武将の生きざまを描くという新聞小説、『天地人』 の挿画を描き始めてからすでに 10ヶ月経ちましたが、“一日一画”の発表ペースはつかめましたか。

中村: いえいえ、毎日が作家の火坂雅志先生 との追いかけっこみたいなもので、ただもう無我夢中でこなしています。 400回の予定で、ようやく270回目を入れたばかりですが、ペースをつかむ余裕なんて最終回までやってこないと思います。

−−  信濃毎日新聞の夕刊に連載され始めたのが昨年の 10月中旬で、翌月には佐賀新聞と福島民報、そして今年に入ってからは新潟日報、奈良新聞、山形新聞など合わせて11紙に掲載されているそうですね。夕刊だと日曜日がないから少しは息が抜けますね。

中村: それが計算違いだったんです。信毎の夕刊からスタートしましたが、翌月から掲載を始めた佐賀新聞さんは朝刊なのでお休みがありません。ですから、しばらくは追いかけられている感じでしたが、とうとう追いつかれてしまって、今ではリーディングが佐賀新聞なんです。

−− すると、新聞休刊日が唯一の息抜きですね。

中村: いえいえ、毎週毎週、ただただ追われているだけで、休刊日を意識する余裕すらありません(笑)。

−− 原稿は日毎にではなくて一週分まとめて入るのですか。

中村: ストックを作るために大抵はまとめて 8日分の原稿をいただくことになっています。一度に入らないときはまず5日分いただいて、あとは週が明けてから3日分とかいうこともあります。そうなると私も週に2回提出ということになります。

−− 極端に遅筆な作家と組むと、「文章を待っていると間に合わないから、とにかく絵を描き出してくれ」と編集者から言われることもあるそうですよ。画家が筋立の流れに沿って差しさわりのない情景を描いたところ、止まっていた作家の筆がその絵に触発されて動き出したという話を読んだことがあります。物語の流れから離れて、映像で言うところの「インサートカット」のような絵も描かれますか。

中村: 床の間の花とか、庭先の花ですね。私はそうした絵を効果的に挿し込んでいきたいなと考えています。

−− 紙面をスクラップして 1週間分ずつ並べたものを持ってきていただきましたが、こうして絵の流れを追って見ると映像作品のカットの構成によく似ていますね。遠景つまり映像で言うロングの絵の翌日は、2人が向かい合っていたり3人か4人の中景・ミディアムショットで、その翌日は一人の左向きのアップ、次の日はそれに対する右向きのアップ、さらに翌日は床の間の花が描かれ、再び対峙する2人というように、画の流れが映像と同じようなリズムになっています。

中村: 作家の先生が書かれる文章自体が、そういうリズムになっているのだと思います。世の中がこう動いていくぞっていう時は、夕陽の大ロングの風景であったり、壮大な海にしますし、具体的な場面になれば、どうしても人物中心になりますから、最初はバストショットで描いて、次にアップ、さらに全身を入れてというように変化をつけていきます。

−− 私は中学生の時に吉川英治の『私本太平記』をスクラップしましたが、杉本健吉の挿画を縦の流れで見ていくと映画のコマのようで楽しかったように記憶しています。いわば、縦に流れる絵巻なんです。

中村: 好きな方は几帳面にスクラップを作られるみたいですね。ですから、本当にあだやおろそかには描けないというか(笑)。私がどういう作風の画家であるかというよりも、どのように楽しんでもらえる可能性があるかということを優先させていかなければならない。少なくとも、単調にならないように、いろいろな描き方で工夫しようと最初から考えていました。そのせいか、描き始めてからは映画とかテレビの画面がこれまでとは全く違って見えるようになりましたね。

−− 黒澤明監督は一枚一枚完成された絵画として絵コンテを描いていますが、中村さんの挿画も映像にして動かしてみたいですね。

中村: ありがとうございます。新聞小説の場合はアイキャッチングも重要です。いつも同じような細かい絵でもつまらないし、アップの人物の絵はあまり好きじゃないという人もいます。いろんな方の好みのどの部分にも狙い撃ちできるようにというようなこともあって、変化が要求されるんです。

※なおえ・かねつぐ
1560 〜 1619 年 幼少から上杉謙信に小姓として仕え、 1578 年の御館の乱では上杉景勝に協力し勝利に導いた。佐渡平定、小田原征伐、朝鮮出兵でも景勝を補佐。上杉家が陸奥会津 120 万石を与えられた時には、豊臣秀吉の命令で出羽米沢 30 万石が兼続に与えられた。 1600 年に徳川家康から上杉家に上洛命令があったが、景勝と兼続はこれを拒否し会津征伐となった。兼続は徳川軍の来襲を待ったが上方での石田三成の挙兵で転進したため、4万もの兵を率いて最上義光に対して猛攻撃を加えたが、関ヶ原の合戦の結果を知って撤退。翌年、景勝と共に上洛し家康に謝罪したので改易から免れたものの米沢 30 万石に減封された。大坂冬の陣では豊臣軍を撃退する活躍をし、 1619 年江戸で死亡。多くの文化人と交わり、論語などを出版した文武両道の名将として知られている。

※ひさか・まさし
1956 年新潟県生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経て 88 年作家デビュー。歴史・時代小説を中心に多くの作品を著している。

 

武将の心で描く

−− 新聞は 『イラストレイティッド・ロンドン・ニューズ』( 1842 年創刊 )以来、 読者の目をひくために絵入りであることがセールスポイントだったそうです。ところが驚いたことには、 挿絵入りの小説が載せられているのは世界中でたった 2カ国、日本と韓国だけだそうですよ。

中村: それは知りませんでした。確かに海外で見る新聞には、カートゥーンというか諷刺画みたいなのがあるだけで、物語的なものは見かけませんね。

−− 「絵付き小説」が日本独自の考案だというのは嬉しいですね。

中村: おかげで、私もお仕事をいただけましたし・・・(笑)。

−− しかし、大変な仕事ですね。作家との鍔競り合いで成り立つ究極のコラボレーションではありませんか。

中村: 私も敬愛する安田靫彦さんのような日本画の大家でも、挿絵の仕事に集中するときは、院展とか帝展に本画作品を出そうとか思わずに「他のことはしないと決めてやった方がいい」とまで言ってらっしゃいますからね。

−− 原稿が入ったら、まずどこを絵にするか、ビューポイントを探し出すことが決め所になりませんか。

中村: そうなんです。私は最初の読者としてまず文字原稿を読み、「どこを絵にするかな?」と考えます。で、「ここが絵になっていて欲しいとみんなが思うだろうな」という所を絵にするようにしています。幸い、作家の火坂先生からは「絵の上手い人はほかに大勢いるけれど、自分が描いて欲しいと思う所を描いてくれている」と、ほめていただいた時は嬉しかったですね。

−− たまには、火坂さんに「えっ、ここを描いたの?」ってインパクトを与えることも大事ではありませんか。そこからまた作家のイメージが広がるかもしれない。

中村: インパクトまではどうでしょうか。でも、火坂先生は懐の広い方なので、私がちょっとした遊びを入れることを楽しんでいただいているようなんです。

−− 叙事的な部分はいくらでも絵で説明できますが、その場に漂う空気感というか叙情的なものを描くのは難しいでしょうね。

中村: そうなんですよ、本当にねぇ。でも、私は叙事を描くよりも叙情を描く方が好きですね。下手は下手なりに向いていると思っているところがあります。逆に戦乱シーンは苦手ですね。正直言って困ります。だから、合戦シーンの中でも、たとえばスローモーションになるようなときがあるじゃないですか。そこを描いてしまうんです。たとえばNHKの大河ドラマの映像でいえば、騎馬軍団がワーっと走ってるところを描くよりも、乱戦の中に血しぶきが上がったその瞬間の、その人の表情みたいなのを好んで描いてしまうので、そちらにばかり流されないように自戒しています。そういえば何年か前に、月刊雑誌のお仕事で合戦のシーンを描いたのを加藤さんに見ていただいたときに、「この刀は風船みたいだよ」って言われてショックでしたよ(笑)。

−− それまで花ばかり描いていた人が初めて描いた戦闘なものだから、武士の腕に力が入っていなくて、刀がとても軽く見えたんです。それにしても風船はひどすぎましたね、竹刀ぐらいに言っておくべきでした(笑)。

中村: 今は時代劇専門チャンネルに入っていますし、ビデオでもよく見ていますが、演技する方が必ずしも正しい動きを演じていらっしゃらないらしいのです。剣術をやったことがありませんので実感できませんし、画像資料をもとに描いても、「ああいう風に剣は振らない」とか「構えない」とかいうようなことを言われてしまいます。難しいですね。

−− 刀の処理は、むしろ腰に差しているときの方が難しくありませんか。

中村: そうなんですよ。ほとんど毎回登場する姿ですが、差している2本の刀の方向が意外に難しいんです。絵の主人公の向きや位置によって、長い刀はどの方向に向かい、脇差はどういう風になるのが自然か。馬に乗っているときはどうなるのか。ですから、時代劇を見るときは刀の位置しか見ていません(笑)。

−− 歴史小説だと地理的な検証も必要になりますね。

中村: 一番困るのがお城です。ある程度資料は揃えているんですけれど、お城も時代によって異なりますしね。

−− 残っているのは、ほとんどが石垣だけだし、城郭はあっても“観光城”でウソばっかり。

中村: そうなんです。戦国時代は大抵は山城だったはずなのに、何を見ても天守閣があったりするんです。巨匠と言われる監督が撮った映画でもそうなんですね。承知の上でやっているんでしょうけれども、その辺りが、どこまで許されるのか。

−− 地元の人たちにとっては、自分のところの城は立派だったというイメージがありますからね。

中村: あまりみすぼらしくも描けません(笑)。

−− 現場に出かけて確かめるということはありますか。

中村: 仕事に取りかかる前に、舞台になりそうな場所は一応見て回りましたが、今はもう、そんな時間はありません。インターネットの検索で見つけた歴史資料館に問い合わせの電話をして、資料をおねだりしたりしています。それも「こういう仕事をしていまして、締め切りが明後日なので郵送していただいている暇がありませんから、ファックスでお願いします」というように、本当にご迷惑なことをあれこれやっています。

−− でも、相手は自分のところが登場すると知って喜ぶでしょう。

中村: そうですね。魚津城から眺めた立山連峰という絵が欲しくて、魚津市役所とか、魚津国際カントリークラブとか、インターネット検索から出てきた所に片っ端から電話して、「ご近所から眺めた立山連峰のパノラマ写真のようなものありませんか」ってお願いしたことがあります。そうしましたら、市役所の屋上から見たパノラマ写真があるというので、すぐに送ってくださったんです。お役所が閉まる夕方5時位にお願いしたら、 10分後にはデジタル画像がメールで届いて感激しました。この時には、信濃毎日に載ったカラー版を余分に分けていただいて、お礼にお送りしましたが大変喜んで下さいました。今はインターネットと、こうしてすぐに反応していただける地元の皆さんのお陰で何とかやっています。

−− 武将モノを描いていると、彼らの人生に影響されるということはありませんか。  

中村: 「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」という言葉は謙信のモットーだったそうですが、いま私はこの精神で絵を描いているような気がします。はっきり言って、挿絵の世界に入ってからまだ5年の経験しかないのに素晴らしいお仕事をいただきました。それはもう、逃げ出したくなるというぐらい恐ろしい事なんですけれども、そういう時に、生死の際で生きている戦国時代の人たちの話を仕事で読むということは、何か運命的なものを感じます。そして自分が直江兼続になりきって、人の世をみつめ、その心で筆をとる。「この絵をほめてもらえるように」という気持ではなく、「この絵のあとはないんだ」という気持。まさに「死なんと戦えば生き」のつもりで描かないといけない。その一念で何とかここまでやってきたんです、本当に。

 

太夫と三味線弾き

−− 挿画を始めたのはいつごろからですか。

中村: 学生時代に児童文学の翻訳の大家でいらっしゃる中村妙子先生について翻訳を少しかじったことがあったことから、 15年ほど前にメーテルリンク原作の『チルチルの青春』 (あすなろ書房 1990) を訳す機会に恵まれました。そのとき、多少、絵の心得があるようだから、挿画も描いてみてはどうかということになりました。もともと、絵本をつくるということに興味がありましたので、迷わずというか、怖いもの知らずで描いてしまったのが最初です。その挿画の原画展を開いていただいたときに、それまで描きためていた水彩やオイルパステル、それに日本画の作品も出展したのをきっかけに、本画作品も少しずつ発表することになって、いつのまにか画業という世界に踏み込んでしまったんです。そんなわけで、もともと油絵や日本画は子どもの手習いとしてずっと描いていましたが、職業の一端として本格的に挿画を描き始めたのは、ここ5年くらいのことなんです。

−−  描き手としては挿画にどんな魅力を感じますか。 

中村: 作家と挿画家の関係は太夫と三味線弾きだといいますよね。三味線は太夫が働いているときはその影、つまり伴奏ですが、太夫が働いていないときはその部分を補って語る、という具合です。その駆け引きのようなものが見えてイメージ出来たときには、「よし !!」と筆をグーで握ってガッツポーズです。あとは本画作品でもそうなんですが、料理にたとえるとしたら、軽い前菜からしっかりしたメインディッシュまで、いろいろなアレンジで描くことにしています。日刊の挿画では週刊・月刊の連載挿画よりも、そのバラエティーをさらに広げることができるので、やりがいがあります。各章の締めくくりには食後のデザートのようなカットを入れたり、というように工夫する余裕もでてきました。

−− 本画は、作家や脚本家が執筆のために篭もる宿として有名な神楽坂の『和可菜』にたくさん掛けられていますが、何か特別な関わりがあるのですか。

中村 和可菜の女将の和田敏子さんが、ミス日本コンテストの代表をしていらした先代の和田静郎先生の従兄妹であることから、私が選ばれた当時は、地方出身のミスたちは上京する度に和可菜に宿泊して後見していただいていたんです。そのときに、「朝お布団をたたんで帰ったのは麻美ちゃんだけだったわよ」ということから、それ以来ずっとかわいがっていただいています。東京の実家のような存在ですね。今でも玄関絵を掛け替えにゆくと、必ず「今晩のおかずあるの? お魚持ってく?」って、母親のような声をかけて下さるんです。 3年前に銀座の『清月堂画廊』で個展を開いたときには、和可菜のご縁で、大河ドラマや朝ドラでおなじみの脚本家・竹山洋先生に一筆書いていただくこともできました。

−− 『利家とまつ』の脚本も 和可菜で書かれたんでしたね。山田洋次監督の『男はつらいよ』だってそうでしょう。作家がカンヅメになることでは、神田駿河台にある『山の上ホテル』と並んで有名な旅館ですからね。ところで、あと 100 日ちょっとは『天地人』の連載で火坂さんとの真剣勝負が続くのでしょうが、それが済んだら思う存分にやってみたいということはありますか。

中村: 昔は挿画を描くなら本画は描くな、本画を描くなら挿画は描くなという“縛り”があったようですが、そういう意味では自由のきく時代です。今は本画作品にとりくむ時間がなかなかとれないのですが、挿画でいろいろと工夫をしていると、この次はこれを取り入れて、岩もの(日本画の岩絵の具)を描いてはどうだろうかと、新しいアイデアが生まれます。先日も秀吉の豪奢な陣羽織の絵柄を写していて、文様を岩の小品にしてみたい、唐紙の文様や小袖の絵柄を発色の美しい岩絵の具で、私流に仕上げてみよう、と思いつきました。
11月に佐賀新聞社の主催で挿画展を開いていただくことになっていますが、その時には、新作の文様シリーズを少し用意しようかと思っています。それから歴史物挿画に学んだマゲモノを盛り込んで、四季折々の風物を盛り込んだ絵巻物のような屏風絵の本画作品・麻美乃絵流も残してみたいと思っています。それも、日本の住宅事情にあわせて、スリーシーターのソファの上にかかるくらいのサイズでね。それともうひとつ。いつか機が熟したら初心に帰って、ずっとあたためている絵本も手掛けてみたいです。欲張りすぎでしょうか?

−− いえいえ、もっともっと欲張ったほうがいいですよ。

中村: それなら、究極の欲張りを言わせてもらいますね。笑わないで下さい。
100歳まで生きて、「成せば成る。麻美 百歳」と色紙に書いてみたいです。

−− 私にはそれを見せていただく自信がありませんが、ぜひ実現してください(笑)。