天地人 第10回川中島(10) ─ そのとき、ヒョッと風がうなった。 兼続は左肩にするどい痛みを感じた。追っ手が放った矢が、肩先をかすめたらしい。 麻の筒袖が裂け、鮮血が噴き出た。 「兄者ッ、血が」天地人 第11回川中島(11) ─ 叱責するように声を発したのは、白い千早にあざやかな紅の切袴をはいた、うら若い巫女(みこ)だった。 黒塗の笠をかぶり、首から水晶の数珠と朱纏で鍾(しょう)を下げている。 「私に付いておいでなさい」 言いはなつや、巫女は身をひるがえし、木暗い森のなかを駆けだした。天地人 第12回川中島(12) ─ さきほどは、頭に血がのぼっていたのでよくわからなかったが、塗笠の下の白く冴えざえとした横顔に、 (うつくしい……) 兼続は深くにも胸が高鳴るのを押さえることができなかった。天地人 第13回川中島(13) ─ 巫女は刃を見ても、顔色ひとつ変えなかった。 「語るに落ちたようね。やはり、あなたがたは上杉家の手の者」天地人 第22回川中島(22) ─「信長は、魔王にほかならず。比叡山延暦寺の僧をなで斬りにし、伊勢長島の一向一揆の衆を、幾重にもめぐらした柵のなかで生きながら焼き殺した。そのような者に善光寺如来がまします信濃の土を、断じて踏ませてはならぬのです」 凛とした口調で、初音は言った。天地人 第24回謙信動く(1) ─ 古く、北陸地方は、 ――越(こし) と、呼ばれた。古志とも、古四とも、また高志とも書く。 越はかつて、福井県北部から石川県、富山県、新潟県、さらには山形県、秋田県の南半分にまでおよぶ、日本海にそった広大な地域であった。天地人 第26回謙信動く(3) ─ 経済基盤の第一は、もちろん米である。第二は、雪の多い山間部の魚沼郡を中心に生産された麻の一種、 ――青苧(あおそ) による収益である。天地人 第29回謙信動く(6) ─ 春日山城は、頚城(くびき)平野を見下ろす小高い山の上に築かれた城である。いただき近くには、赤松の古木が多く生い茂っている。 城からは、眺めがよい。天地人 第46回師と弟子(1) ─ あるじの上杉景勝にしたがって、兼続も上田衆らにまじり、兼信の上洛戦に参加している。不動明王の梵字(ぼんじ)を前立てにした筋兜に、紺糸の素掛け縅(おどし)の二枚胴具足をつけている。引きしまった長身に具足がよく映え、馬上侍のなかでもひときわ目につく凛々しい若武者ぶりだった。天地人 第48回師と弟子(3) ─ 上杉軍は兵糧のほかに、大量の酒樽も陣中に持ち込んでいる。体をあたため、寒さをしのぐのが主たる目的だが、長期遠征の陣中にあっては、酒が兵たちの唯一の気晴らしだった。大将の謙信自身、無類の酒好きで知られている。 久秀は瓢箪に唇をあてて、一口呑んだ。天地人 第65回師と弟子(20) ─ すすめられるまま、二杯、三杯と、兼続は馬上杯を干した。酒は、涙で塩辛い味がした。謙信が朝嵐の琵琶を取り出し、雪の庭に向かって嫋々とかなでた。それが、兼続にとって、謙信と呑む最後の酒となった。天地人 第67回雪崩(2) ─ 謙信は、「七尾城は間もなく落ちる。さすれば、わが上杉軍は疾風のごとく加賀へ加勢に駆けつけるであろう」と、門徒衆を励まし、城攻めを急いだ。天地人 第70回雪崩(5) ─「われらは七尾城の後詰めに来たのだ。その七尾城が落ちた以上、軍勢を北へすすめる意味はない」丹羽長秀が、滝川一益、佐々成政、前田利家ら、居並ぶ武将たちを見渡して言った。天地人 第71回雪崩(6) ─ その雲洞庵――。 金城山のふもとのうっそうたる杉林のなかに、 本堂 衆寮 禅堂 客殿 大庫裡(くり) 大方丈 小方丈 など、二十余棟の苔むした茅葺き屋根の坊舎がたたずんでいる。天地人 第72回雪崩(7) ─ 生まれてはじめて味わう人生の挫折が、少年から大人へと、ひとりの男を脱皮させつつある。 半眼を閉じ、結跏跌座(けっかふざ)したまま、長い時が流れた。やがて、兼続は座禅をといて立ち上がった。禅堂の決まりごとを書いた規矩(きく)の額の下をくぐり、縁側へ出る。縁側の向こう、苔むした庭の上には、真っ赤に色づいたカエデの葉があざやかに散り敷いていた。天地人 第73回雪崩(8) ─ 頭に、肩に、滝は激しく打ちつけてくる。兼続は両手で不動明王の印(いん)を結び、一心不乱に呪(しゅ)をとなえた。手足の先がしびれ、しだいに体じゅうの感覚が失われてきた。 滝の音と、おのれと――この広大無辺な天地に、ただそれのみしか存在しない。生と死が背中合わせになった幽冥の境に、兼続の心身はあった。天地人 第74回雪崩(9) ─ 頭上をおおう杉の巨木の梢(こずえ)で、鳥がするどく鳴いている。ハイタカが、翼を大きく広げ、何かに追われるように枝から飛び立っていった。 「誰か、いるのか」兼続は声を放った。天地人 第76回雪崩(11) ─ 上杉にあうては 織田も名(手)取川 はねる謙信 逃げるとぶ(信)長天地人 第78回雪崩(13) ─ 兼続は新雪をかんじきで踏みかためながら歩いた。 早朝のことゆえ、参道に人影はない。目の前に、白い雪野原ばかりが広がっている。 山門をくぐり、寺を出た。天地人 第90回雪崩(25) ─ いかに好ましく思っても、お船は人の妻である。直江信綱という立派な婿がいる以上、この先の兼続の人生と重なり合うはずもない存在であった。冬の陽射しに照らされた雪の連山を背景に、被衣をかぶった女の横顔は氷細工のように凛(りん)として見えた。天地人 第91回雪崩(26) ─「少し、休みませぬか」 兼続の背中に、お船が声をかけてきた。 振り返ると、女二人は前をゆく男たちから少しずつ遅れだしている。侍女の額に、汗が浮かんでいた。天地人 第95回第一義(2) ─ 小具足に身をかためた兄弟は、馬をならべ、春日山をめざして砂浜を一散に駆けた。天地人 第100回第一義(7) ─ 「お屋形さまがこのままお亡くなりになったとして、そなた、この上杉家で何が起きるとお思いです」 仙桃院が、尼にも似合わぬ厳しい目で兼続を見た。天地人 第101回第一義(8) ─ 人間的な好みからいえば、謙信は三郎景虎のほうを、より愛していたのではないかと思われる。 兼続自身がそのいい例だが、謙信は容姿端麗で才気のある若者が好きであった。だが、 (お屋形さまのまことの心は、景勝さまにある……)と兼続はかたく信じている。天地人 第108回第一義(15) ─「お屋形様のご遺言がございます」尼のたったひとことが、静まり返った大広間に、南蛮伝来の大筒を撃ち込んだほどの波紋を投げかけた。 ――おおッ と、ざわめきが起こった。驚き、動揺、好奇心、さまざまな感情が入り乱れ、諸将のあいだを駆けめぐっていく。天地人 第111回第一義(18) ─「景勝には三郎どののような華やかさはないかもしれぬ。不識庵さまのごとく、光り輝く才智で人を魅きつけていく力もあるまい。されど、景勝には物に動ぜぬ厳(いわお)のような強さがあります。おのれの欲ではなく、正義によって行動する、公正な心があります。親のひいき目ではなく、それはあざやかな才気よりも、大将として大事なことです」 仙桃院は言った。天地人 第117回第一義(24) ─ ただひとつの目標に向かって、若者たちは目ばかりをオオカミのように青く光らせながら闇のなかをひた走った。 やがて、行く手に門が見えてきた。 春日山城の防御のかなめ、 「千貫門」 である。天地人 第119回第一義(26) ─ 兼続は、赤土の上にころがる松明を跳び越え、 ――リャーッ! 掛け声もろとも、鑓を突き出した。 手ごたえがあった。天地人 第138回秘謀(18) ─ 武田軍は春日山城との距離、三十里にまでせまっていた。 故謙信の代には、上杉軍は信越国境に近い川中島で五度にわたって武田軍と戦ったが、その間、ただ一度として越後領内への侵入をゆるしたことはない。天地人 第175回華燭(11) ─ 景勝は川舟を駆りあつめ、舟橋をつくって押しわたろうとはかったが、押し出してきた敵勢の妨害にあい、砦に近づくことすらできなかった。天地人 第192回死中に生あり(7) ─ 兼続は本陣の景勝のもとへ参上した。 ちょうど、景勝は小姓に給仕をさせ、集め汁(味噌汁)をかけた飯をかき込んでいるところだったが、入ってきた兼続の顔を見るなり箸をおき、人払いを命じた。天地人 第194回死中に生あり(9) ─ 湿気を含んだ生あたたかい夜の底に、しずかに打ち寄せる波の音と、櫓のきしみだけが響いた。 石田浜から魚津までは、一里。 浜辺が弓なりにつづいている。その一か所に、明かりが見えた。魚津城をかこむ織田勢の篝火であろう。天地人 第196回死中に生あり(11) ─ 「そなたたちの心を思うと、まことに気の毒だが、ご実城さまは、ここ一両日中のうちに、越後へお引きあげになられる」 「何と……」 十三将の顔色が変わった。天地人 第199回死中に生あり(14) ─ 景勝は兜の下の顔を、かすかにゆがめた。二本木は、現在の新潟県頚城郡中郷村二本木の地である。北国街道ぞいの集落で、春日山城からは、わずか五里(二十キロ)の距離にあった。 「敵は、二本木に陣をしいたか」天地人 第200回死中に生あり(15) ─ 敵将滝川一益も、鑓で突かれて落馬したが、あやういところを供の者に助けられ、ぶざまな姿で逃げ去ったという。まさに、上田衆の大手柄といっていい。天地人 第201回死中に生あり(16) ─ (間に合え、間に合ってくれ……) 祈るような思いで、兼続は駆けつづけた。 しかし――。天地人 第206回死中に生あり(21) ─ その明智から、 (なにゆえ、魚津へ密使が……) 兼続は首をひねった。 しかも、その密使が告げた内容が、また理解しがたいものであった。 ――御当方、無二の御馳走(ごちそう)申すべき由。天地人 第210回死中に生あり(25) ─ 本能寺に信長を襲う以前、光秀はすでに、越中にいる柴田勝家がおのれの当面の敵になるであろうと予想し、その柴田と戦っている上杉軍に、ひそかにクーデター計画をつたえ、同盟を持ちかけてきたのである。光秀は、密使を魚津へつかわすことにより、みずからの退路を断った。天地人 第213回死中に生あり(28) ─ 「明智光秀が謀叛……」 柴田勝家は、髭をたくわえた剛毅(ごうき)な顔をしかめた。 予想外の事態であった。天地人 第217回天下動乱(4) ─ 信長の死を聞いた秀吉は、大声を上げて泣いた。サルに似た皺くちゃの顔をゆがめ、小柄な体をふるわせて男泣きに泣いた。 (おのれを、ここまでに引き立ててくれた上様が死んだ……) 人として、これほどの悲しみはない。 秀吉は人情味豊かな男である。素直に感情があふれ出た。天地人 第220回天下動乱(7) ─ ひとつの危機を乗り越え、兼続とお船の心は強く結ばれた。 (上杉家を、そしてこの人を、全力で守ってゆく……) 背中にのしかかる重い責任が、兼続を押しつぶすどころか、逆に闘志を湧きたたせている。天地人 第231回天下動乱(18) ─「家康は、わが真田一族を裏切る気かッ」 昌幸は憤然と叫んだ。 上野国が北条領になれば、徳川に属する真田氏は、沼田、岩櫃(いわびつ)など、上州の重要な拠点を失うことになる。天地人 第235回兼続と幸村(3) ─ 北条や徳川のごとき有力大名ではなく、山間の小土豪の次男にすぎない若者を、 (名門上杉家の筆頭家老が、下馬の礼まで取って出迎えるというのか……) いまだかつて、幸村が経験したことのない、新鮮な感動であった。天地人 第261回上洛(6) ─ 実頼は頭をかかえてしまった。 義理の姉のお船が、その姿を見るに見かね、 「朝廷への進上物ならば、不識庵さまがご上洛なされたおりの記録が、どこかに残っているのではありませぬか。それを先例になされませ」 と、助言をした。 「おお、これは気づきませなんだ。しかし、朝廷への献上品は先例にならうとして、大坂城のおなご衆には……」 「女は、いったいに贈り物に弱いものです」天地人 第268回上洛(13) ─ その後、上機嫌の秀吉は、景勝と兼続を大坂城の天守閣へ案内した。 天守閣の最上階からは、難波潟にそそぎ込む天満川(淀川の下流をそう呼ぶ)を眼下に見おろすことができる。天地人 第273回上洛(18) ─「やめよ。かよわい女人相手に見苦しいではないか」 兼続は娘をかばうように、二人のあいだに割って入った。 突然、あらわれた六尺近い長身の兼続に、男は一瞬、たじろいだようである。天地人 第280回山城守(4) ─ 京へもどると、本国寺の宿所に石田三成がたずねてきた。 つねのごとく、身なりに一分の隙もない。ピシッと熨斗(のし)のきいた肩衣袴(かたぎぬばかま)を着ている。天地人 第281回山城守(5) ─ 世間では、石田三成を事務能力だけが取り柄の小人物と過小評価するむきもあるが、兼続自身は、こうした三成の見かけによらぬ大胆さを高くかっている。天地人 第286回山城守(10) ─ また兼続は、玄興から秘蔵の『古文真宝抄』二十三巻を借り、上杉家の右筆にこれを書写させている。 京の文雅が全身に沁み、兼続の世界観はより大きく広がった。 お涼は、たまに茶会に同席することもあり、兼続が千家をおとずれると、何かと理由をつけて顔をみせる。 その目に、とおりいっぺんの親しみ以上の好意があらわれているのを、兼続は感じた。「いつまで京にいらっしゃるのですか」天地人 第290回山城守(14) ─ 政宗は、豊臣家と敵対する小田原の北条氏直と連携し、常陸の佐竹義重を挟み撃ちにする計略をすすめる一方、何食わぬ顔で秀吉に会津攻略を弁明する使者を送り、浅野長政に対してとりなしを頼んだ。ひとことで言って、したたか。とても、二十三歳の若者にできる芸当ではない。天地人 第294回山城守(18) ― 直江兼続の兜の前立ての《愛》は、民を愛するの愛――すなわち、愛民の意味だという。兼続が後半生を過ごした山形県の米沢の地では、そのように言い伝えられてきた。 だが、これには異説もある。 直江兼続の《愛》は、軍神の愛宕大権現、あるいは愛染明王への信仰をあらわす、というものである。(第294・295回)天地人 第302回家康(4) ─ 端的にいえば、石田三成の国家構想は、すべての権力を関白秀吉のもとに一元化することである。すなわち、 ――中央集権 と、いっていい。天地人 第303回家康(5) ─「石田どのに、それほどの覚悟があるのなら、上杉家は豊臣政権に全面的に協力する。一国をまとめ上げるという大義の前では、個々の領土欲や意地など小さい」天地人 第304回家康(6) ─ そもそも、秀吉の不機嫌のもとは、上杉、前田に対するものではない。北条方に甘い態度でのぞんでいる徳川家康の戦いぶりに、強い不満と不信感を持っている。だが、その苛立ちを、家康本人に直接ぶつけることができず、結果として、景勝と利家がとばっちりを食うこととなった。いわれのない咎めを受けたほうは、たまったものではない。天地人 第305回家康(7) ─ 激戦のすえ、同日夕刻、八王子城は陥落。城兵一千余人が討ち取られ、捕虜二百余人、上杉、前田軍側の死傷者も多数におよんだ。 「これでよかったか」傷つき疲れた自軍の兵たちを前にして、上杉景勝が兼続を振り返った。 「すべては、天下のため……」天地人 第315回家康(17) ─ 兼続は、三成の色白の顔をひたと見つめ、 「だが、人は理と情のあわいで生きている。右の手と左の手、ちょうどその真ん中にこそ、真実があるのだ。その真実をすくいとるのが、まつりごとだ」「真ん中には何もない。道は右か、左か、そのいずれかしかあるまい」知らず知らず、言い合いになった。天地人 第321回男と女(1) ─ 利休の妻や娘たちも、とがめこそ受けなかったものの、華やかな表舞台から姿を消した。お涼の行方は、あれきりようとして知れない。天地人 第326回男と女(6) ─ 加藤清正、黒田長政らは、あとから乗り込んで来た三成に、あからさまに反発。このころから、豊臣軍の快進撃にも、かげりが見えはじめた。天地人 第330回男と女(10) ─ 秋草模様の摺箔(すりはく)の打ち掛けを着たお船が、つつましく目を伏せた。お船の雪のような白い肌をいっそう引き立たせる、豪奢で華麗な打ち掛けである。天地人 第339回男と女(19) ─「使者、怪我人は……」 「数知れまい。家を失った者たちが、幽鬼のように廃墟をさまよっている」 「そうか」兼続は一瞬、けわしい表情をしたが、すぐに決然たる視線を弟に戻すと、 「千坂対馬に言って、屋敷の米蔵をあけさせよ」天地人 第344回会津へ(2) ─ 「明使めら、なに面(つら)下げてやって来たッ!」 激高した秀吉は、着ていた明国の冠服を脱ぎ捨て、書院の床の間に投げつけた。天地人 第348回会津へ(6) ─ 後ろ手に障子を閉め、巫女がかぶっていた塗笠をはずした。 笠の下から、見覚えのある艶麗な顔があらわれる。 「初音か」 兼続は目をほそめた。天地人 第355回会津へ(13) ─ 国替えの準備のため、春日山城へもどる兼続の旅支度を手伝いながら、お船が溜め息をついた。 「寂しいか」 「寂しくないと言ったら、嘘になりましょう。生まれ育った故郷(くに)ですもの」天地人 第356回会津へ(14) ─ 春日山城はすでに、時代遅れの城となった。 (世は変わっていく……) 新しい時代は、待ったなしで押し寄せてくる。天地人 第359回会津へ(17) ─「これでひとまず、伊達の蠢動(しゅんどう)は押さえることができた」 石田三成が、会津若松城の天守から、北東にそびえる磐梯山(ばんだいさん)の純白の峰を眺めてつぶやいた。天地人 第370回戦雲(9) ─ あずまやで家康と話をしているのは、本多佐渡守正信である。正信は、家康より五つ年上の六十二歳。もともとは鷹匠(たかじょう)あがりであったが、その鋭い戦略眼と、泥臭いまでの政治力によって、家康に登用され、 ――懐刀(ふところがたな) と、称されるまでの信頼を得ていた。天地人 第371回戦雲(10) ─ つづく正月十日、秀頼は、 「わしの死後、秀頼は大坂城へ入り、前田利家を傳役(もりやく)として天下を統べよ」 という秀吉の遺言にしたがって伏見城を発し、おりからの風雨のなか、御座船六十艘を淀川につらねて大坂城へ向かった。天地人 第373回戦雲(12) ─ 「ははッ!」 返答するやいなや、服部半蔵は、 ――ピュッ と、指笛を吹いた。たちまち忍び装束をまとった黒い影が、庭の暗がりのあちこちから化生(けしょう)のごとく湧き出てくる。天地人 第377回戦雲(16) ─ 主君景勝が縁側へ姿をあらわした。景勝はすでに、浅葱糸縅黒皺革包二枚胴具足(あさぎいとおどしくろしぼかわづつみにまいどうぐそく)に身を固めている。 「何をしている。大阪城の秀頼さまのもとへ駆けつけるぞ」「お待ち下さいませ」 いまだ平装のままの兼継は、あるじを押しとどめた。天地人 第382回戦雲(21) ─ 宇喜多秀家にまで見放された三成は、完全に行き場を失った。盟友直江兼続を頼ろうにも、上杉家は徳川家康と取り交わした誓証文(きしょうもん)を遵守し、あくまで中立の立場をとっている。天地人 第386回北の城塞(2) ─「まことに」 本多佐渡守正信がうなずき、 「ご事情と申せば……」 と、兼続のほうへ目を向けた。天地人 第387回北の城塞(3) ─ 「どう思う、佐渡守」謀臣本多正信と二人きりになると、家康は好物の浜納豆をかじりながら聞いた。天地人 第403回決戦(2) ─ 兼続は、西笑承兌――いや、その背後にいる徳川家康に向けて返書を発した。 世にいう、 ――直江状 である。天地人 第404回決戦(3) ─ みずからへの非難に満ちた兼続の書状を一読した徳川家康は、激怒した。「上杉を討つッ!ただちに、出陣の陣触れを発せッ」兼続の投げた一石によって、時代は大きく動きだした。その流れを止めることは、もはや誰にもできない。天地人 第415回決戦(14) ─ 「このような好機は、二度とめぐってはまいりませぬ。いや、ここで徳川を追わねば、天下どころか、かえって上杉家存亡の危機となりましょう」 「卑怯者の汚名を着てまで、生き延びようとは思わぬ」天地人 第422回生きる(2) ─ 異様な熱気が軍議の席をつつんだ。上座にすわった上杉景勝、執政の直江兼続は、黙って家臣たちの議論に耳を傾けている。天地人 第430回生きる(10) ─ 「いや。家臣たちが、みずから主家に見切りをつけぬ以上、苦楽をともにしてきた者どもを切り捨てるようなまねはいたさぬ」天地人 第436回生きる(16) ─ 慶長八年(1603)二月十二日、家康は朝廷より征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府をひらいた。徳川幕府の成立である。天地人 第447回愛(7) ─ 淀殿にいたっては、「しいて上洛せよというなら、わが子秀頼とともに自害して果てよう」とまで言い出した。天地人 第455回愛(15) ─ 「雪国人の粘り強さ、しぶとさが、それがしにも伊達殿にも染み付いている。最後の最後まで諦めず、雪の中で春を待つ。それこそが、我等の身上ではござらぬか」兼続は、妙高の稜線を見つめながら呟いた。 画像の無断転用お断りします。使用ご希望の場合はお問い合わせ下さい。