「伝えたい日本のこころ」では、長い年月を経て、大切に語り伝えられてきた歴史の名場面を描いています。
歴史のものがたりは、なぜ語り継がれてきたのでしょうか。
いろいろなご意見があると思いますが、私は、こう考えています。様々な時代の名場面には、人生を心豊かに生きるための重要な手がかりがたくされている、と。なぜならば、引っ込み思案だった子供の頃、そうしたお話を知るたびになんだか力が湧いてきたり、こころが清められたり、強くなったりするのが感じられたからです。
しかし、昔は国語の教科書などで学び、誰もが知っていたお話が、今では教えられなくなってしまいました。そのために、私たちのこころから次第に失われていったものがあるーーそれが惜しまれてなりません。長年語り継がれてきたお話には、日本の歴史や伝統、大切な精神文化がたくされています。それは、後世の人々の幸せを願う、昔の人々の知恵、私たちへの贈り物といってもよいでしょう。
悲しいことに、現代社会は混迷を深める一方です。
そうした今こそ、こうしたお話に触れ、人間や人生というものに対する深い信頼や希望、逆境に負けないたくましい信念を育んでいくことが、何より大切なのではないでしょうか。
歴史のことは 人生のこと こころのこと

新羅三郎 笙の秘曲を授ける
平安時代後期の武将、新羅三郎義光(源義光)のお話です。新羅三郎義光は陸奥守兼、鎮守府将軍として奥羽平定の途にある兄・八幡太郎義家(源義家)を助けるため、朝廷の官を辞し、数十騎の兵をともない、奥州に向かいました。
寛治元年(1087)仲秋のこと、三郎義光の奥州出兵を聞き、京から義光を追ってきた若者がありました。豊原時秋です。時秋は足柄山で露営していた義光軍に追いつきました。新羅三郎義光は時秋の父、笙の名家豊原家屈指の名人であった時元に学び、笙の道に精進していました。義光は自分を追ってきた若者の志を察し、時秋に告げました。「よく聞かれよ。我は御尊父より笙の秘曲を授かり、これを後世に伝うべく託された。しかるにこのたび戦場に赴く上は、生死がほどもはかり難い。我死なばこの道はすたれ先師の志も空しうする。只今これより相伝の秘曲を伝授すれば貴殿はこれより京へ引き返しこの道を守られよ」。そう言うと、幼少であった時秋のかわりに時元から授かった笙の奥義を時秋に授けたのでした。ときあたかものおぼろ月のもと、笙の音が山中にひびきわたりました。
のちの武田家、佐竹家、小笠原家などの武家の祖である新羅三郎義光は、弓馬の術にたけ、音曲にもすぐれた武将であったと今に伝えられています。

称名寺「青葉の楓」
謡曲「六浦」の「青葉の楓」の物語です。
東国行脚を思い立った都の僧が、鎌倉を経て六浦港にたどり着き、安房清澄山に詣でる舟を待つあいだ、称名寺に立ち寄りました。そこで今を盛りと紅葉する木々を眺めていると、一本だけ、青葉のままの不思議な楓がありました。すると、どこからともなく里の女が現れ、語りました。
「昔、中納言冷泉為相卿がお越しになった折、今とは反対に、この木だけ見事に紅葉しておりました。そこで、為相卿は一首お詠みになりました。
いかにして
この一本にしぐれけん
山に先立つ
庭のもみじ葉
(どうしたのであろう、この木だけに葉を染める時雨でも降ったのであろうか)
この木にとって、高貴なお方からお褒めの歌を頂戴したのは身に余る光栄でした。もはや功成り名を遂げた上は身を退くのが天の道。それ以降、紅葉するのをやめたのです」
女は、自分はこの楓の精であるといって姿を消しました。
鎌倉時代中期から後期にかけての公卿冷泉為相卿は、歌道冷泉家の祖として知られています。この謡曲「六浦」は、文明17年(1485)に歌僧堯恵が称名寺を訪れた際に見聞し、「北国紀行」につづった伝説をもとに、能作者の金春禅竹によって脚色されたものと伝えられています。

中江藤樹 母への薬
江戸時代の儒学者・中江藤樹は、子供の頃、近江(滋賀県)の両親の元を離れて、米子(鳥取県)の祖父のところで勉学に励んでいました。
ある冬、母からの便りに「今年は寒いのであかぎれができて困ります」と書いてありました。心配になった藤樹は、山寺にあかぎれに効く薬があると聞き、それを母の元へ届けようと思いました。
そして薬を手に、米子から近江まで、雪道を何日もかけて歩き、ようやく家に辿り着きました。
井戸端で水を汲んでいた母は、突然現れた息子の姿に驚きました。
「まあ、どうしてここに」
藤樹は言いました。
「母上のあかぎれによく効く薬を買ってまいりました」
しかし、それを聞いた母は、急に厳しい顔になりました。
「あなたは家を出るとき、何と約束しましたか。立派な人にならないうちは帰らないと言ったではありませんか。約束を破って、薬を持ってきてくれても、母はちっとも嬉しくありません。すぐにお帰りなさい」
藤樹は、母の言うことを理解し、ただうなずいて、雪の道を引き返したのでした。
母の教えにしたがって立派な学者となった中江藤樹は、数々の尊い教えを説き、その徳望の高さから「近江聖人」と呼ばれ、多くの人々に尊敬される人物となりました。

和田勇 祖国にオリンピックを招致
1964年(昭和39)東京オリンピックの招致の際、準備委員会委員に選ばれた日系二世のフレッド・イサム・ワダ(日本名・和田勇)は、1907年(明治40)、米国ワシントン州に生まれました。ワダの家は貧しく、幼い頃から苦労を重ねましたが、やがて実業家として成功しました。 しかしワダは、1941年の日米開戦で、事業を行っていたカリフォルニア州からユタ州への移住を余儀なくされました。そして、「二つの祖国」の間で終戦まで厳しい日々を送ることになったのでした。
戦後は、ロサンゼルスで再出発し、まだ反日感情の強い米国に来る日本人選手の面倒を、献身的にみました。古橋廣之進選手をはじめ、当時の日本人水泳選手に宿舎として自宅を提供したこともありました。スポーツを通して日本再建の姿を見てもらいたいという熱い思いがあったのです。
東京招致の決め手は、事業を顧みず、妻と共に私費で中南米十カ国を一カ月以上歴訪し、支持を取り付けてまわったことにありました。また、次のメキシコオリンピック誘致活動にも尽力し、東京開催を支持してくれたメキシコへの恩返しも忘れませんでした。
ワダの功績は、日本の国際社会への復帰、復興を促したばかりでなく、世界平和と人間形成を目的とするオリンピックの信条にも深く根ざすものであったといえるでしょう。

鍋島直茂と接ぎ木
肥前佐賀藩の藩祖・鍋島直茂(1538~1618)はある日、庭に出て家来に接ぎ木をさせていました。
「どうだ。おまえも接ぎ木をするか」。直茂が傍に控えていた白髪まじりの家臣に尋ねると、その者は「私は老年にございますので」と答えました。それを聞いた直茂は「おまえは奇怪なことを言う。自分が見るものと思っておるのか。接ぎ木は子孫が見るためにするのだ。すべてものごとは、己のためにするのではない。末代、他人のためにする心掛けを持たずにどうするのだ」と叱ったのでした。
直茂は肥前国を根拠地として九州に割拠し、「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信の重臣でしたが、知略と統率力で強大な豊後国の大友氏、薩摩国の島津氏と並ぶ勢力に主家を導き、やがて鍋島藩の祖となりました。
「我が気に入らぬことが、我がためになるものなり」「寄り合いにくき人と寄り合いてみよ。必ず徳あるべし」「思案に余る一大事に出会ったときは、一大事と考えるから決断がつかない。大事の思案は軽くすべし。武士は何事も七呼吸で決断せよ」「いかに知音を持つとも、頼まずに、ただ我が身ひとつと心得べし」などの名言を残した直茂は、江戸時代中期に書かれた鍋島藩士・山本常朝の『葉隠』により、広く知られることになったのでした。

島津義弘 関ヶ原陣中突破
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦では勝敗がすでに決していました。西軍・島津義弘の軍勢はわずか三百、退路は東軍にとざされ、横には小早川軍、前方では徳川家康率いる東軍の主力部隊数万が今にも攻め込もうとしていました。
島津家存続のためには生きて家康に申し開きするしかありません。とはいえ、敵に背を向けては島津の名折れ、思案の末、義弘は驚くべき決断をくだしました。
「敵はいずかたが猛勢か」。義弘の問いに家臣は答えました。「東寄りの敵、もってのほか猛勢」。それを聞くや否や、義弘は采配を高々とあげました。「その猛勢の中に突っ込め」。
義弘率いる三百の軍勢は、突如東軍数万のただなかに突き進みました。島津隊は猛烈な勢いで家康本陣の前をかすめ、街道筋へ突進しました。
追撃する家康の精鋭部隊の前にたちはだかったのは、「捨てがまり」と呼ばれる戦法で追撃を遅らせる島津の家臣たちでした。何人かがとどまって敵の足止めをし、全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法です。
捨て身で忠を尽くす家臣たちのはたらきにより、義弘軍は伊勢路を経て堺港まで脱出、薩摩への帰還に成功しました。
敵である東軍からも賞賛されたこの敵中突破は、「島津の退き口」として語り継がれ、武士の勇を今に伝えています。

明智光春 誉れの湖水渡り
明智光秀の重臣・明智左馬之介光春(秀満)の物語です。
天正10年(1582)6月14日、光春は主君光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、敗死したとの知らせを受けると、本能寺の変ののち占領した安土城からわずかの兵をひきいて明智家の居城坂本城に退却します。
途中、琵琶湖岸の打出浜(現大津市)で秀吉軍の先鋒・堀秀政軍に出会い、一戦を交えましたが、形勢は圧倒的に不利――。と、そのときです。光春は一直線に坂本城に急ぐべく、騎馬のまま琵琶湖にザンブと乗り入れました。
驚く敵軍を尻目に光春は愛馬大鹿毛を泳がせ、浮きつ沈みつ、見事に湖水を渡りきりました。「おまえのおかげで湖を渡ることができた」。光春は愛馬をねぎらい、懐紙を取り出すと「左馬之介を乗せて湖水を渡りたる馬」と記し、その鬣にくくりつけて放しました。
坂本城に入った光春は、茶道具など、天下の名品を戦火で焼失させてはならないと考え、目録をつけて秀吉方の武将に託します。そして光秀の妻子、自らの正室たちとともに自害、城に火を放ちました。後年、放された名馬は秀吉の愛馬となり、幾多の戦功をたてたといいます。
こうして光春が成した武勇は安土城史の最後を飾る名場面「誉れの湖水渡り」として今も語り伝えられています。

小松姫 夫の居城を守り抜く
徳川四天王の一人、本多忠勝の娘で真田信之(信幸)の妻・小松姫の話です。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦前夜、上杉攻めに参加していた真田昌幸、信之、幸村父子は、下野国(栃木県)犬伏で、石田三成挙兵の密書を受け取りました。協議の結果、父・昌幸と弟・幸村は西軍へ、信之は東軍に別れることになりました。いずれが敗れても、真田家が存続できるよう、道を選んだのです。
信之と別れた昌幸が幸村を伴い、犬伏より上田城へ引き上げる際、信之不在の沼田城に立ち寄ろうとしたときのことです。敵味方に別れれば、もはや会うこともかなわない孫の顔をひとめ見たい、という昌幸に対し、沼田城の城門は堅く閉ざされていました。
「大殿が嫡男にあずけた支城に入れぬとはなにごとぞ」と家臣たちが騒ぎ立てると、緋縅の鎧に身を固め、薙刀を手にした女人が城門の櫓の上にあらわれました。城主信之の室・小松姫です。「父上といえど今は敵、城主の留守に入れるわけにはまいりませぬ」
その翌日、衣服をあらためた小松姫は、城から三丁あまり離れた正覚寺に泊まっていた昌幸たちのもとに、五人の孫を伴って姿を見せました。
「さすが本多の娘ぞ。武士の妻女たる者の鑑じゃ」。昌幸は満足してそう言い残し、上田城への道を急いだということです。

良寛さまと筍
江戸時代後期の禅僧良寛(1758~1831)は、越後国(新潟県)出雲崎の名主の家に生まれ、味わい深い書や和歌を残した人物です。
人付き合いが苦手だった良寛は十七歳で出家し、約三十年間、全国を旅して修行を続け、そののち故郷近くの山寺で暮らしました。
ある日、村から帰ってきた良寛は、寺の床がふくらんでいることに気づきました。
床下を覗いて見ると、一本の筍が生えており、床を下から押しているのでした。「これは大変だ」。良寛は物置からのこぎりを持ってきました。
そして筍の真上の床を四角く切り抜いたのです。
「これでよい。さあ筍さん、遠慮しないでぐんぐん伸びなされよ」
筍は、それからも毎日すくすく成長しました。
良寛は、大きくなる筍を見て大喜びでした。そのうち筍は、天井に届くまで大きくなってしまいました。良寛は物置からのこぎりとはしごを持ってくると、筍の周りの天井を四角く切り抜いてあげました。「筍さん、頑張れよ」
。小さかった筍は、やがて立派な竹になりました。
子供や動物、生き物をみな同じように慈しみ、可愛がった良寛さまを、人々は仏様のように思いました。良寛の残した優れた歌や書は、こうした良寛の澄んだ美しいこころと人柄を今に伝えています。

真田幸村 大坂の陣
慶長19年(1614)12月、大坂城を包囲する徳川軍が濃霧をついて城の南東に築かれた出丸(真田丸)を攻撃しました。大坂冬の陣、真田丸の攻防戦です。
真田丸を守る真田幸村(信繁)は、鉄壁の防御で敵を寄せつけず、奇策・秘密兵器で徳川方を翻弄、勇猛果敢に戦いました。しかし、同12月22日、休戦の和平交渉により、大坂城の堀は埋め立てられることになりました。このとき、家康は十万石、あるいは信濃一国を与えてもよいから、徳川方につかないかと勧誘してきましたが、幸村はきっぱりと断ったのでした。
翌年5月7日、緋縅の鎧を帯し、馬にも紅の厚総を垂らした幸村は具足、旗指物すべて赤備えにした真田軍を率い、十文字の槍をもって徳川家康の本陣に三度も突き入りました。この大坂夏の陣で幸村に馬印を倒され、馬廻りの旗本たちを蹴散らされた家康は切腹を覚悟したと伝えられています。
人生のほとんどを人質、配流生活で過ごした真田幸村は大坂の両陣で八面六臂の大活躍を果たしたのち、力及ばず討死しました。
敗れゆく戦いと知りつつ、豊臣方の武将として退くことなく徳川軍と渡りあった幸村の英雄伝説は、歌舞伎、浄瑠璃、講談、小説など、庶民の芸能文化の中で甦り、今もなお熱く語り継がれています。

小林虎三郎 米百俵の精神
慶応4年(1868)、北越戊辰戦争で新政府軍との戦いに敗れた長岡藩は焦土と化し、領民は困窮を強いられました。貧困と混乱のさなか、明治3年(1870)、窮状をみかねた支藩三根山藩から見舞いとして百俵の米俵が送られてきました。
食べるのにも事欠く長岡藩士たちは、その米が分け与えられるものと喜びました。が、ときの長岡藩大参事小林虎三郎は藩士たちに意見しました。「百俵の米も皆で食えばたちまちなくなる。しかし、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる。国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を立て、人物を養成するのだ」。文武総督でもあった虎三郎は、人材育成こそが、敗戦国の復興にとって肝要である、米を売って学校を造る資金にすべきであると主張しました。これを聞いた藩士たちは抗議しました。虎三郎は反論する藩士らを命がけで説きふせ、ついに押切りました。
こうして米百俵を元手に開校された国漢学校では、士族の子弟だけでなく、農民や町民の子弟も入学が許可されました。洋学局や医学局も設立され、教師や教育課程も充実、山本五十六らの優秀な人材が輩出されたのでした。
目先のことではなく未来のためにという、米百俵の精神は今もなお連綿と語り伝えられています。

長岡花火「白菊」
1945年(昭和20)8月1日、米軍の空襲で新潟県長岡市は焼け野原と化し、1486人の尊い命が失われました。長岡市では毎年、空襲のあった1日の午後10時30分と2日、3日の大花火大会の冒頭に、「白菊」が打ち上げられます。白菊には、空襲で亡くなった人々への慰霊、復興に尽くした人々への感謝、そして平和への願いが込められています。
長岡花火を代表する世界的花火師・嘉瀬誠次さんは、1990年夏、ロシアのハバロフスクを流れるアムール川で3000発の花火を打ち上げました。嘉瀬さんは戦後3年間体験したシベリア抑留時代に亡くなった戦友たちを弔うために、花火を打ち上げに来たのでした。そのとき、万感の想いを込めて準備していったのが、この白菊でした。アムール川の夜空を彩った花火は、30万人を超える人々を感動させ、大成功をおさめました。
翌日、嘉瀬さんは日本人墓地を訪ねました。そして、かつては敵同士として戦ったソ連兵が眠るお墓にもお参りしました。嘉瀬さんはいいました。「両方お参りできて、胸のつかえがおりたような気がします」
今年、8月15日には、ホノルルの真珠湾で白菊が打ち上げられます。戦後70年、長岡花火は、世界中の人々に平和への祈りのメッセージを届けます。

伝えたい日本のこころ
尼子十勇士筆頭、山中鹿之助幸盛(1545~1578)の逸話です。
永禄8年(1565)、毛利の大軍が尼子氏の本拠地月山城を包囲して半年、鹿之助は山の端にかかる三日月に祈りました。「三日月よ、我に七難八苦を与えたまえ」。
幼い頃から弓馬や軍法を学んだ鹿之助は、初陣で勇名をとどろかせ、三日月の前立て、鹿の角の脇立ての兜を着用して戦場を疾駆、その豪勇ぶりで敵兵を震え上がらせていました。しかし鹿之助一人がいかに強くとも、追い詰められた尼子氏の勢いを盛り返すことは難しく、鹿之助には苦難の道が待っていました。
永禄九年、月山城は落城、その後十年間、孤軍奮闘の鹿之助はただ一筋に主家の再興を願い、あらゆる手段で毛利との抗争を繰り広げました。
あるときは明智光秀に近づき、あるときは織田信長の兵を借り、一度などは、海賊将軍奈佐日本之助の力を借り、隠岐へ渡り、領主佐々木為清の兵を併せて出雲に侵入、毛利方の城十五カ所を手中にしたこともありました。しかし、天正六年五月、主君尼子勝久が切腹するにおよび、ついに鹿之助の夢は潰えました。
島根県安来市の月山富田城跡には、あえて試練の道を選び、辛苦に耐え、主家への忠義を貫いた山中鹿之助の銅像や供養塔があり、その武勇を今に伝えています。

天照大御神と美し国伊勢
神々の世界をおさめる日の神・天照大御神は、御孫・瓊瓊杵尊をこの国にお降しになるとき、宝鏡を授けて命じました。「この鏡を私を見るごとくにまつれ」
瓊瓊杵尊に授けられた宝鏡は八咫鏡と称され、以後、代々の天皇が宮中でお祀りしていました。しかし、第十代崇神天皇は御殿の内に御神体を祀ることに恐れを抱かれたため、大和国の笠縫邑にうつして皇女・豊鍬入姫命がお祀りすることになりました。これが後世の斎王制度の起源といわれています。
その後、第十一代垂仁天皇の御代、新たにふさわしい土地を皇女・倭姫命が探すことになりました。倭姫命は、天照大御神の御杖代として大和、伊賀、近江、美濃、尾張と諸国を旅して巡り、やがて伊勢の国にお入りになりました。
そのとき、天照大御神は倭姫命にお告げになりました。
「この神風の伊勢の国は、永久不変に浪がしきりに打ちよせる国である。大和のわきにある美し国である。この国におりたいと思う」。
倭姫命は教えに従い、五十鈴川のほとりに、磯宮と称した祠を建ててお祀りしました。
こうして天照大御神は、永遠の御鎮座の地として美しい伊勢の国を選ばれ、のちの皇大神宮(伊勢神宮内宮)が創建されたのでした。

南総里見八犬伝
「南総里見八犬伝」は、安房国(千葉県)の城主里見義実の娘・伏姫と忠犬・八房ゆかりの八つの霊玉をもった八犬士が、はなばなしく活躍する江戸時代の物語です。
八犬士は、それぞれが苦難を乗り越え、正義を貫き、因縁の糸に導かれて集結、やがて主君里見氏のために奔走します。彼らのもつ不思議な霊玉には「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が浮かび上がります。
仁は仁愛。自他のへだてをおかず、一切を思いやる心。
義は正義。利害を捨て、道義を貫き、人に尽くす心。
礼は礼節。秩序のため、敬意をもって決まりに従うこと。
智は智慧。ものごとを理解し、正しい判断をくだせる力。
忠は忠義。主、人のために尽くす、嘘偽りのない真心。
信は信頼。嘘を言わず、相手を信用すること。
孝は孝行。父母を敬い、先祖を大切にすること。
悌は孝悌。年長者を敬うこと。仕え、従うこと。
江戸時代の文豪曲亭馬琴は、文化11年(1814)から28年の歳月をかけてこの長編伝奇小説を著しました。妖気渦巻く作中には、この八徳の玉が指し示す儒教的道徳が鮮烈に息づいています。
歌舞伎、浄瑠璃をはじめ、様々な大衆文化にいたるまで、大きな影響をあたえ続ける「南総里見八犬伝」は、今年で刊行200周年を迎えます。


イザナギノミコト イザナミノミコト 国生み
昔々、天地が初めてあらわれたころのお話です。
天上の高天原(たかまがはら)にお住まいの神様たちが、下界を見下ろされると、世界はまだ若く、水に浮く脂のようで、くらげのようにふわふわと漂っていて、しっかり固まっていませんでした。
そこで、高天原の神様たちは、イザナギノミコト、イザナミノミコトという二柱の神様に、天沼矛(あめのぬぼこ)をあたえ、下界をさして、こうお命じになりました。「イザナギよ、イザナミよ、おまえたちふたりは力をあわせ、この漂う下界の国を収め、造り固め成すがよい」
神々の命にしたがい、イザナギとイザナミは、天空に浮いてかかる天浮橋(あめのうきはし)の上から、下界の渦のただ中に矛を下ろし、どろどろとした海をおかきまぜになりました。
「こおろ、こおろ、こおろ」
そして、天沼矛をすうっと引き上ると、その先からぽたぽたと海水が滴り落ちました。落ちたしずくはみるみるうちに固まって、ひとつの島ができあがりました。ひとりでに固まってできあがったので、この島のことを“おのころ島”といいます。
やがて、二柱の神様は次々に島をお生みになり、大八島国とよばれる日本の国をお造りになったのでした。

徳川光圀 倹約を教える
倹約を奨励し、自らかたく守っていた水戸藩第2代藩主徳川光圀は、紙を丁寧に使い、普段ものを書くときには、不要になった紙の裏を使っていました。ところが、殿中の奥女中たちは紙を粗末に使うので、冬のある日、農家の紙すき場を見せることにしました。
川辺の桟敷で寒い風に吹かれながら、奥女中たちは農民たちが働く様子を眺めました。紙すきの女たちは、凍てつく北風の中、氷づくような水に入って、手足を真っ赤にして懸命に働いています。
光圀は諭しました。「一枚の紙でも、民が苦労してこしらえたものであるから、決して無駄に使ってはならぬ」奥女中たちは、自分たちが使っている紙がいかに尊いものであるかを悟り、それからは一枚の紙でも大切に扱い、無駄遣いすることはありませんでした。
当時、農家の紙すきは水戸藩の財政を支える重要な産業でもありました。
明治・大正時代、このお話は修身の教科書に採用され、広く知られるようになりました。現在、黄門さま、徳川光圀が奥女中たちに紙すきを見せた場所は、水戸藩指定紙すき場跡として当時の風情を残し、義公・光圀の薫陶を今に伝えています。

中江藤樹の教え 馬子の正直
江戸時代の儒学者『近江聖人』こと中江藤樹のお話です。
ある武士が主君の命で藩の公金数百両を携えて京都へ上る道中、近江の宿に着いたところ、金を途中で雇った馬の鞍に結び付けていたことをすっかり忘れて馬子を返してしまいました。
こうなれば、腹を切って主君に詫びるしかありません。夜になって遺書をしたため、死ぬ覚悟をかためました。ところがそのとき、宿の戸をたたくものがありました。なんと昼の馬子が、四里の道を歩いて戻って来たのです。「これはお侍さまの大切なものでしょう。お返しします」
当然のことをしたまで、礼金は要らない、と言い張る馬子に、武士は心底驚きました。「どうしてそれほど無欲で正直で誠実でいられるのか」。馬子は答えました。「私たちの小川村に、中江藤樹先生が住んでいます。先生は、人生の目的は自分の利益ではない。正直に、人の道に沿って生きることだ、とおっしゃいます。私たちはその教えに従って暮らしているのです」
「それ学問は心の汚れを清め、身の行ないを良くするを以て本実とす」
道徳と実践を重んじた中江藤樹の教えは、脈々と受け継がれ、後の日本の教育に大きな影響を与えたのでした。

宮古島の篝火 博愛の精神
沖縄県南西部の宮古島でのできごとです。
明治6年、ドイツ商船ロベルトソン号が中国からオーストラリアに向けて出航しました。しかし、まもなく台風に遭い、3日間漂流の末、宮古島沖で座礁してしまいます。
島の遠見番が難破船に気づくと、村人たちはすぐに救援に向かおうとしましたが、激浪の上に日没間近のため、その日は断念せざるをえません。そこで、海岸で夜通し篝火を焚いて、船員たちを励まし見守り続けたのです。
翌朝、村人たちは沈没が近いとわかると決死の覚悟でクリ舟を出すことにしました。海岸の地形を熟知した漁師たちは高浪の中、岩間をぬって舟を漕ぎ、8人の船員たちを残らず救助したのでした。
帰国後、ロベルトソン号の船長は、宮古島での経験を新聞で発表しました。「死と隣り合せの漆黒の闇の中、船から見た篝火は生きる希望そのもの、終生忘れがたい光景であった」
異国船に対する決死の救助は、ドイツ国内で大反響を呼びました。それを受けて皇帝ヴィルヘルム一世は感謝の意を伝える使節を宮古島に送り、記念碑を建立。その碑文は国を越えた友情、そして村人たちの勇気と優しさ、博愛の精神を刻んでいます。

万葉集 梅花の宴
春の日、気は清らかに澄みわたり、風はやわらかにそよいでいます。
梅は佳人の鏡の前の白粉のように咲きほこり、蘭は貴人の飾り袋の香のように香っています。明け方の峰には雲が行き来して、松は雲の薄絹をまとって蓋をさしかけたような風情、夕方の山洞には霧が湧き起こり、鳥は霧の帳に閉じ込められながら林を飛び交っています。庭には春生まれた蝶が舞い、空には秋来た雁が帰っていくのがみえます。
一同、天を屋根とし、地を座席として膝を近づけて盃をめぐらせます。みな恍惚として言葉を忘れ、雲霞のかなたに向かって互いに胸の内を開いて過ごします。心は淡々として自在、思いも心地よくただ満ち足りています。(参考=伊藤博訳注「新版 万葉集 ― 現代語訳付き(角川ソフィア文庫)」)
万葉集巻五「梅花の歌」は、このような序文で始まります。筑紫国(つくしのくに 現在の福岡県)、大宰帥(だざいのそち)・大友旅人(おおとものたびと)の屋敷での宴では、園梅を歌題に皆が思い思いの歌を詠みました。
奈良時代に編纂された日本最古の和歌集・万葉集は、詠み人は天皇、貴族から庶民まで、題材も儀式の歌から恋の歌まで幅広く、何千首もの歌が集められており、後の日本文化の基盤となりました。

松下村塾
長州国萩城下にあった松下村塾は、幕末期最も著名な志士・吉田松陰が主宰した私塾で、明治維新後に活躍した多くの人材を輩出しました。
松陰は塾生たちに、身分の分け隔てなく一人の人間として、日本人として誇りを持ち、自ら学ぶようになって欲しいと考えていました。そこで塾には時間割を作らず、勉強する内容も各々に任せました。塾生たちは自然と集まって講義を聴いたり、別の塾生と討論を始めたりします。時には塾生に講義をさせ、意見交換の場が作られました。
また松陰は、塾生の長所を見つけ、大いに褒めました。そして、「まず志を立てることからすべては始まる」「まごころを持って物事にあたり、まごころをもって人に接しなさい」「学者になってはいけない。実行するのが大切です」など、尊い教えで塾生たちを導きました。
現在、松陰神社にある松下村塾は、平成27年、世界遺産に登録されました。その柱の聯(れん)には、「自非読万巻書安得為千秋人 自非軽一己労安得致兆民安(一生懸命勉強して立派な人になり、少しの労力も惜しまず世のためにつくしなさい)」とあり、日本の未来のため、身命を惜しまず行動した吉田松陰の高い志を今の世に伝えています。

吉田松陰の志
長州藩士吉田松陰は、十一歳で藩主・毛利敬親の面前で講義をするほどの秀才で、長じてからは日本各地をまわり、世に役立つ人物となるために見識を深めました。
やがて、欧米の船がたびたび日本近海に現れ、日本が欧米列強の脅威にさらされるようになりました。嘉永6年(1853)、浦賀に米国のペリー提督が黒船で来航したとき、鎖国の遅れを取り戻すためには外国に渡り、勉強しなければならないと松陰は悟ります。そこで翌年、ペリーが二度目に来航したとき、米国に行きたいと密航を企て、国禁を破って黒船に乗り込みました。このときペリーは松陰の志の高さに感嘆し、日本人は高い使命感の前には命も惜しまない誇り高い民族であるという感想を持ったといいます。
密航は叶わず、松陰は国事犯として投獄されました。国元の萩の野山獄でも松陰は勉強を続け、囚人たちにも学問の大切さを説き教えました。その後、松陰が開いた松下村塾は、幕末から明治にかけての激動期に活躍した多くの偉人を輩出しました。
「世のため人のために身を粉にして尽くせる人物になること、そのために自分の力を精一杯養うことが本当の学問である」と説いた松陰の志は、安政の大獄で刑死した後も門下生たちに受け継がれ、幕末維新の時代を切り開く大きな原動力となったのでした。

夫の危機を救う弟橘媛
日本武尊の妃、弟橘媛のお話です。
4世紀前半頃、蝦夷征伐の途にあった日本武尊は、相模国(現神奈川県)から海を越えて上総へ渡ろうとしましたが、潮流の激しい走り水(浦賀水道)を横切るとき、暴風雨にあいました。
今にも転覆しそうな船の上で、弟橘媛は国を平定するという大切な使命をさずかっている夫の身をなんとしても守りたいと思い、海神の怒りをしずめるため、荒れ狂う海に身を投じました。すると、たちまち大波はおさまり、船は無事安房国(現千葉県)に到着することができました。
身を投げるまえ、弟橘媛は、
「さねさし 相模の小野に
燃ゆる火の 火中に立ちて
問ひし君はも」
と歌を残しました。駿河国の焼津で火に囲まれたとき、日本武尊が命をかけて弟橘媛に励ましの声をかけてくださったことを思い出されて詠んだのでした。7日後、海辺に弟橘媛の櫛が流れつくと、それを埋葬してお墓がたてられました。
その後、日本武尊は無事東国の蝦夷を平定し、大和へ戻る道すがら、群馬の碓氷峠から関東平野をのぞみ、「吾妻はや」(ああ、わたしの妻よ)と弟橘媛を偲びました。
こうした由来から、関東のことを「吾妻」「東の国」と呼ぶようになったそうです。
大型絵本「伝えたい日本のこころ」もございます。
ぜひご家族、親子三代四代でお楽しみください。
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「伝えたい日本のこころ」は、
公益財団法人日本武道館発行月刊『武道』表紙絵と巻末の解説文の連載(2008〜)です。https://www.nipponbudokan.or.jp/shupan/back
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