「伝えたい日本のこころ」

吉田松陰の志






吉田松陰の志





萩の松陰神社から、松陰先生マスク、届きました。
松陰の時代はコロリが流行ったとか。
貴重なマスク、大切に使います。

「伝えたい日本のこころ」第十二話、今日は、海防視察姿の志士・吉田松陰寅次郎のお話です。
海防視察、今、緊張は高まるばかり、ですね。
歴史は繰り返す。ゆえに歴史は未来の予言である、特に幕末期と激動の現代は似ている、とよくいわれますね。
挿画家として、あるときは松陰先生長州を、またあるときは河井継之助幕府方を、それぞれに感情移入して描いてきました。新聞小説挿画では、大抵一年以上毎日原稿を読み、何を描くか考え、人物を、難しい歴史の局面を描いていきます。
敵方にも味方にも正義があります。作家の先生がたの作品世界の中で、ささやかながら考えてきた経験を生かして、現代人にとって役に立つ部分を抜粋し、純粋にお伝えしていけたら、という側面も、この「伝えたい」シリーズには盛り込まれます。

この作品も、秋山香乃先生の「吉田松陰 大和燦燦」の山口新聞連載中に描いたものでした。
こうした作品を並べて、若い方々には歴史への入り口に、見識深い紳士淑女には話題のネタにお役立ていただく、そうしたイベントも展開しています。
落ち着きましたら、楽しい展覧会イベント、企画して参ります。
コロナ時代の「伝えたい」、新しい楽しみ方、活かし方、どうぞお楽しみに。
本日もよろしかったらご一読下さい。
幕末期の海防視察の覚悟、です。


長州藩士・吉田松陰寅次郎のお話です。
松陰は、十一の頃には藩主毛利敬親の前で講義をするほどの秀才で、長じてからは日本全国をまわり、世に役立つ人物となるための見識を深めました。やがて、欧米の船がたびたび日本近海に現れ、日本が欧米列強の脅威にさらされるようになると、松陰は自分にできることは何かと命がけで考えます。
嘉永六年(1853)、浦賀に米国のペリー提督が黒船で来航したときのことです。鎖国のあいだの遅れをとりもどすためには外国に渡り、勉強しなければならないと松陰は悟りました。そこで翌年、ペリーが二度目に来航したとき、国禁を犯して黒船に乗り込み、米国に同行させてほしいと交渉しました。このときペリーは、松陰の志の高さ、高潔さに感嘆し、日本人が高い使命感の前には命も惜しまない誇り高い民族であるという感想をもったといいます。
密航はかなわず、松陰は国事犯として投獄されました。が、故郷、萩の牢獄でも松陰は勉強を続け、囚人たちにも学問の大切さを説き教えました。
その後、松陰が開いた松下村塾は、幕末から明治にかけての激動期に活躍した多くの偉人を排出しました。「世のため人のために身を粉にして尽くせる人物になること、そのために自分の力を精一杯養うことがほんとうの学問である」と説いた松陰の志は、松陰が刑死した後も門下生たちに受け継がれ、維新の時代を切り開く大きな原動力となったのでした。


高村正彦日本武道館会長と、武道館で初めておめにかかったとき、ちょうど山口新聞連載中だったので、
「今、山口新聞で吉田松陰を描かせていただいています」とお話ししましたら、
高村先生は、お優しい口調でひとこと。
「中村さん、山口の人間と話すときは、吉田松陰“先生”と言っていただきたいですね。頑張ってください」
ふるさと三重でも、本居宣長先生と呼ばなければいけません。
絵筆とともに平安を祈ります。


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