
天地人 第11回
川中島(11) ─ 叱責するように声を発したのは、白い千早にあざやかな紅の切袴をはいた、うら若い巫女(みこ)だった。
黒塗の笠をかぶり、首から水晶の数珠と朱纏で鍾(しょう)を下げている。
「私に付いておいでなさい」
言いはなつや、巫女は身をひるがえし、木暗い森のなかを駆けだした。

天地人 第12回
川中島(12) ─ さきほどは、頭に血がのぼっていたのでよくわからなかったが、塗笠の下の白く冴えざえとした横顔に、
(うつくしい……)
兼続は深くにも胸が高鳴るのを押さえることができなかった。

天地人 第22回
川中島(22) ─「信長は、魔王にほかならず。比叡山延暦寺の僧をなで斬りにし、伊勢長島の一向一揆の衆を、幾重にもめぐらした柵のなかで生きながら焼き殺した。そのような者に善光寺如来がまします信濃の土を、断じて踏ませてはならぬのです」
凛とした口調で、初音は言った。

天地人 第24回
謙信動く(1) ─ 古く、北陸地方は、
――越(こし)
と、呼ばれた。古志とも、古四とも、また高志とも書く。
越はかつて、福井県北部から石川県、富山県、新潟県、さらには山形県、秋田県の南半分にまでおよぶ、日本海にそった広大な地域であった。

天地人 第46回
師と弟子(1) ─ あるじの上杉景勝にしたがって、兼続も上田衆らにまじり、兼信の上洛戦に参加している。不動明王の梵字(ぼんじ)を前立てにした筋兜に、紺糸の素掛け縅(おどし)の二枚胴具足をつけている。引きしまった長身に具足がよく映え、馬上侍のなかでもひときわ目につく凛々しい若武者ぶりだった。

天地人 第48回
師と弟子(3) ─ 上杉軍は兵糧のほかに、大量の酒樽も陣中に持ち込んでいる。体をあたため、寒さをしのぐのが主たる目的だが、長期遠征の陣中にあっては、酒が兵たちの唯一の気晴らしだった。大将の謙信自身、無類の酒好きで知られている。
久秀は瓢箪に唇をあてて、一口呑んだ。

天地人 第65回
師と弟子(20) ─ すすめられるまま、二杯、三杯と、兼続は馬上杯を干した。酒は、涙で塩辛い味がした。謙信が朝嵐の琵琶を取り出し、雪の庭に向かって嫋々とかなでた。それが、兼続にとって、謙信と呑む最後の酒となった。

天地人 第71回
雪崩(6) ─ その雲洞庵――。
金城山のふもとのうっそうたる杉林のなかに、
本堂
衆寮
禅堂
客殿
大庫裡(くり)
大方丈
小方丈
など、二十余棟の苔むした茅葺き屋根の坊舎がたたずんでいる。

天地人 第72回
雪崩(7) ─ 生まれてはじめて味わう人生の挫折が、少年から大人へと、ひとりの男を脱皮させつつある。
半眼を閉じ、結跏跌座(けっかふざ)したまま、長い時が流れた。やがて、兼続は座禅をといて立ち上がった。禅堂の決まりごとを書いた規矩(きく)の額の下をくぐり、縁側へ出る。縁側の向こう、苔むした庭の上には、真っ赤に色づいたカエデの葉があざやかに散り敷いていた。

天地人 第73回
雪崩(8) ─ 頭に、肩に、滝は激しく打ちつけてくる。兼続は両手で不動明王の印(いん)を結び、一心不乱に呪(しゅ)をとなえた。手足の先がしびれ、しだいに体じゅうの感覚が失われてきた。
滝の音と、おのれと――この広大無辺な天地に、ただそれのみしか存在しない。生と死が背中合わせになった幽冥の境に、兼続の心身はあった。

天地人 第74回
雪崩(9) ─ 頭上をおおう杉の巨木の梢(こずえ)で、鳥がするどく鳴いている。ハイタカが、翼を大きく広げ、何かに追われるように枝から飛び立っていった。
「誰か、いるのか」兼続は声を放った。

天地人 第90回
雪崩(25) ─ いかに好ましく思っても、お船は人の妻である。直江信綱という立派な婿がいる以上、この先の兼続の人生と重なり合うはずもない存在であった。冬の陽射しに照らされた雪の連山を背景に、被衣をかぶった女の横顔は氷細工のように凛(りん)として見えた。

天地人 第101回
第一義(8) ─ 人間的な好みからいえば、謙信は三郎景虎のほうを、より愛していたのではないかと思われる。
兼続自身がそのいい例だが、謙信は容姿端麗で才気のある若者が好きであった。だが、
(お屋形さまのまことの心は、景勝さまにある……)と兼続はかたく信じている。

天地人 第108回
第一義(15) ─「お屋形様のご遺言がございます」尼のたったひとことが、静まり返った大広間に、南蛮伝来の大筒を撃ち込んだほどの波紋を投げかけた。
――おおッ
と、ざわめきが起こった。驚き、動揺、好奇心、さまざまな感情が入り乱れ、諸将のあいだを駆けめぐっていく。

天地人 第111回
第一義(18) ─「景勝には三郎どののような華やかさはないかもしれぬ。不識庵さまのごとく、光り輝く才智で人を魅きつけていく力もあるまい。されど、景勝には物に動ぜぬ厳(いわお)のような強さがあります。おのれの欲ではなく、正義によって行動する、公正な心があります。親のひいき目ではなく、それはあざやかな才気よりも、大将として大事なことです」
仙桃院は言った。

天地人 第117回
第一義(24) ─ ただひとつの目標に向かって、若者たちは目ばかりをオオカミのように青く光らせながら闇のなかをひた走った。
やがて、行く手に門が見えてきた。
春日山城の防御のかなめ、
「千貫門」
である。

天地人 第138回
秘謀(18) ─ 武田軍は春日山城との距離、三十里にまでせまっていた。
故謙信の代には、上杉軍は信越国境に近い川中島で五度にわたって武田軍と戦ったが、その間、ただ一度として越後領内への侵入をゆるしたことはない。

天地人 第192回
死中に生あり(7) ─ 兼続は本陣の景勝のもとへ参上した。
ちょうど、景勝は小姓に給仕をさせ、集め汁(味噌汁)をかけた飯をかき込んでいるところだったが、入ってきた兼続の顔を見るなり箸をおき、人払いを命じた。

天地人 第194回
死中に生あり(9) ─ 湿気を含んだ生あたたかい夜の底に、しずかに打ち寄せる波の音と、櫓のきしみだけが響いた。
石田浜から魚津までは、一里。
浜辺が弓なりにつづいている。その一か所に、明かりが見えた。魚津城をかこむ織田勢の篝火であろう。

天地人 第199回
死中に生あり(14) ─ 景勝は兜の下の顔を、かすかにゆがめた。二本木は、現在の新潟県頚城郡中郷村二本木の地である。北国街道ぞいの集落で、春日山城からは、わずか五里(二十キロ)の距離にあった。
「敵は、二本木に陣をしいたか」

天地人 第206回
死中に生あり(21) ─ その明智から、
(なにゆえ、魚津へ密使が……)
兼続は首をひねった。
しかも、その密使が告げた内容が、また理解しがたいものであった。
――御当方、無二の御馳走(ごちそう)申すべき由。

天地人 第210回
死中に生あり(25) ─ 本能寺に信長を襲う以前、光秀はすでに、越中にいる柴田勝家がおのれの当面の敵になるであろうと予想し、その柴田と戦っている上杉軍に、ひそかにクーデター計画をつたえ、同盟を持ちかけてきたのである。光秀は、密使を魚津へつかわすことにより、みずからの退路を断った。

天地人 第217回
天下動乱(4) ─ 信長の死を聞いた秀吉は、大声を上げて泣いた。サルに似た皺くちゃの顔をゆがめ、小柄な体をふるわせて男泣きに泣いた。
(おのれを、ここまでに引き立ててくれた上様が死んだ……)
人として、これほどの悲しみはない。
秀吉は人情味豊かな男である。素直に感情があふれ出た。

天地人 第220回
天下動乱(7) ─ ひとつの危機を乗り越え、兼続とお船の心は強く結ばれた。
(上杉家を、そしてこの人を、全力で守ってゆく……)
背中にのしかかる重い責任が、兼続を押しつぶすどころか、逆に闘志を湧きたたせている。

天地人 第231回
天下動乱(18) ─「家康は、わが真田一族を裏切る気かッ」
昌幸は憤然と叫んだ。
上野国が北条領になれば、徳川に属する真田氏は、沼田、岩櫃(いわびつ)など、上州の重要な拠点を失うことになる。

天地人 第235回
兼続と幸村(3) ─ 北条や徳川のごとき有力大名ではなく、山間の小土豪の次男にすぎない若者を、
(名門上杉家の筆頭家老が、下馬の礼まで取って出迎えるというのか……)
いまだかつて、幸村が経験したことのない、新鮮な感動であった。

天地人 第261回
上洛(6) ─ 実頼は頭をかかえてしまった。
義理の姉のお船が、その姿を見るに見かね、
「朝廷への進上物ならば、不識庵さまがご上洛なされたおりの記録が、どこかに残っているのではありませぬか。それを先例になされませ」
と、助言をした。
「おお、これは気づきませなんだ。しかし、朝廷への献上品は先例にならうとして、大坂城のおなご衆には……」
「女は、いったいに贈り物に弱いものです」

天地人 第268回
上洛(13) ─ その後、上機嫌の秀吉は、景勝と兼続を大坂城の天守閣へ案内した。
天守閣の最上階からは、難波潟にそそぎ込む天満川(淀川の下流をそう呼ぶ)を眼下に見おろすことができる。

天地人 第273回
上洛(18) ─「やめよ。かよわい女人相手に見苦しいではないか」
兼続は娘をかばうように、二人のあいだに割って入った。
突然、あらわれた六尺近い長身の兼続に、男は一瞬、たじろいだようである。

天地人 第286回
山城守(10) ─ また兼続は、玄興から秘蔵の『古文真宝抄』二十三巻を借り、上杉家の右筆にこれを書写させている。
京の文雅が全身に沁み、兼続の世界観はより大きく広がった。
お涼は、たまに茶会に同席することもあり、兼続が千家をおとずれると、何かと理由をつけて顔をみせる。
その目に、とおりいっぺんの親しみ以上の好意があらわれているのを、兼続は感じた。「いつまで京にいらっしゃるのですか」

天地人 第290回
山城守(14) ─ 政宗は、豊臣家と敵対する小田原の北条氏直と連携し、常陸の佐竹義重を挟み撃ちにする計略をすすめる一方、何食わぬ顔で秀吉に会津攻略を弁明する使者を送り、浅野長政に対してとりなしを頼んだ。ひとことで言って、したたか。とても、二十三歳の若者にできる芸当ではない。

天地人 第294回
山城守(18) ― 直江兼続の兜の前立ての《愛》は、民を愛するの愛――すなわち、愛民の意味だという。兼続が後半生を過ごした山形県の米沢の地では、そのように言い伝えられてきた。
だが、これには異説もある。
直江兼続の《愛》は、軍神の愛宕大権現、あるいは愛染明王への信仰をあらわす、というものである。(第294・295回)

天地人 第304回
家康(6) ─ そもそも、秀吉の不機嫌のもとは、上杉、前田に対するものではない。北条方に甘い態度でのぞんでいる徳川家康の戦いぶりに、強い不満と不信感を持っている。だが、その苛立ちを、家康本人に直接ぶつけることができず、結果として、景勝と利家がとばっちりを食うこととなった。いわれのない咎めを受けたほうは、たまったものではない。

天地人 第305回
家康(7) ─ 激戦のすえ、同日夕刻、八王子城は陥落。城兵一千余人が討ち取られ、捕虜二百余人、上杉、前田軍側の死傷者も多数におよんだ。
「これでよかったか」傷つき疲れた自軍の兵たちを前にして、上杉景勝が兼続を振り返った。
「すべては、天下のため……」

天地人 第315回
家康(17) ─ 兼続は、三成の色白の顔をひたと見つめ、
「だが、人は理と情のあわいで生きている。右の手と左の手、ちょうどその真ん中にこそ、真実があるのだ。その真実をすくいとるのが、まつりごとだ」「真ん中には何もない。道は右か、左か、そのいずれかしかあるまい」知らず知らず、言い合いになった。

天地人 第339回
男と女(19) ─「使者、怪我人は……」
「数知れまい。家を失った者たちが、幽鬼のように廃墟をさまよっている」
「そうか」兼続は一瞬、けわしい表情をしたが、すぐに決然たる視線を弟に戻すと、
「千坂対馬に言って、屋敷の米蔵をあけさせよ」

天地人 第355回
会津へ(13) ─ 国替えの準備のため、春日山城へもどる兼続の旅支度を手伝いながら、お船が溜め息をついた。
「寂しいか」
「寂しくないと言ったら、嘘になりましょう。生まれ育った故郷(くに)ですもの」

天地人 第359回
会津へ(17) ─「これでひとまず、伊達の蠢動(しゅんどう)は押さえることができた」
石田三成が、会津若松城の天守から、北東にそびえる磐梯山(ばんだいさん)の純白の峰を眺めてつぶやいた。

天地人 第370回
戦雲(9) ─ あずまやで家康と話をしているのは、本多佐渡守正信である。正信は、家康より五つ年上の六十二歳。もともとは鷹匠(たかじょう)あがりであったが、その鋭い戦略眼と、泥臭いまでの政治力によって、家康に登用され、
――懐刀(ふところがたな)
と、称されるまでの信頼を得ていた。

天地人 第371回
戦雲(10) ─ つづく正月十日、秀頼は、
「わしの死後、秀頼は大坂城へ入り、前田利家を傳役(もりやく)として天下を統べよ」
という秀吉の遺言にしたがって伏見城を発し、おりからの風雨のなか、御座船六十艘を淀川につらねて大坂城へ向かった。

天地人 第373回
戦雲(12) ─ 「ははッ!」
返答するやいなや、服部半蔵は、
――ピュッ
と、指笛を吹いた。たちまち忍び装束をまとった黒い影が、庭の暗がりのあちこちから化生(けしょう)のごとく湧き出てくる。

天地人 第377回
戦雲(16) ─ 主君景勝が縁側へ姿をあらわした。景勝はすでに、浅葱糸縅黒皺革包二枚胴具足(あさぎいとおどしくろしぼかわづつみにまいどうぐそく)に身を固めている。
「何をしている。大阪城の秀頼さまのもとへ駆けつけるぞ」「お待ち下さいませ」
いまだ平装のままの兼継は、あるじを押しとどめた。

天地人 第382回
戦雲(21) ─ 宇喜多秀家にまで見放された三成は、完全に行き場を失った。盟友直江兼続を頼ろうにも、上杉家は徳川家康と取り交わした誓証文(きしょうもん)を遵守し、あくまで中立の立場をとっている。

天地人 第404回
決戦(3) ─ みずからへの非難に満ちた兼続の書状を一読した徳川家康は、激怒した。「上杉を討つッ!ただちに、出陣の陣触れを発せッ」兼続の投げた一石によって、時代は大きく動きだした。その流れを止めることは、もはや誰にもできない。
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